生物多様性条約および名古屋議定書は生物資源の移転に伴う法的制度を定めている。その中で重要なものに「相互に合意する条件(MAT)」がある。利用研究の対象となる生物資源を移動させる際に当事者間で合意する契約書として実現される。契約の形態は自由であり、当事者間の合意をまとめたものであるべきである。したがって、利用研究形態に応じて条項の取捨選択を行うことはできる。ただし、法的確実性を持たせるために、法的条項は国際的に確立されたものを用いることが多い。
生物資源の移動には、生息域内で生物資源を保有し提供する国の場合もあるし、提供国にある生息域外保存機関が提供する場合もある。生息域内の国からの移転の場合、「相互に合意する条件(MAT)」の実施形式は明確な利益配分を含むため前章で記載した共同研究契約形式を取ることが多い。しかし、提供国との共同研究は意図しておらず、提供国への直接的な活動を伴わず、単に遺伝資源を日本に移動させる場合、素材移転契約(MaterialTransferAgreement:MTA)を採用することが一般的である。
提供国から遺伝資源を入手する際、素材移転契約(MTA)を採用する場合において、提供国側の主に政府機関が提示している標準形式のものを用いるが、標準素材移転契約でも利益配分条項を設定している。また、多くの場合輸出許可証となる場合が多い。したがって、素材移転契約であっても自由にその内容を交渉により変更できるようにはなっていない標準形式が多い。提供国の権威ある当局から「事前の情報に基づく同意(PIC)」を入手する際、サインされた標準素材移転契約を提出するが、当局のチェックは利益配分条項であることを認識すべきである。政府認定の標準素材移転契約形式を用いる方が当局の理解が早いのは当然である。
政府認定の標準素材移転契約形式を用いず、提供国の研究者個人、保存機関や学術機関と素材移転契約を結ぶ場合もある。しかしこの提供国の機関等との素材移転契約に利益配分条項がない場合、提供国政府から別途利益配分契約の設定を要求される場合があり、その交渉に時間を費やすことになる。したがって、あらかじめ利益配分条件について十分当事者間で交渉しておくことが大切である。
生息域外の保存機関、特に提供国以外の大学、研究所等からの遺伝資源を移転する場合、研究目的の研究者間の移転という形態が多いため、科学の再現性原則と学界の長年の習慣に基づいた素材移転契約の形式を取る。この場合、自由利用を基礎とし、非営利研究目的限定のため、利益配分についてほとんど考慮されていない。学会や保存機関が定める素材移転契約も同様な原則に基づいて作られている。
素材移転契約には、非常に簡便化され、統一化された契約形式も多いが、これは利用国内学術関係者間の長年の信頼関係に基づいた習慣によるためである。しかし、提供国との関係では利用国での習慣が通じない場合があるので、素材移転契約を用いる場合は、どのような研究形態に対応した契約であるかをよく吟味する必要がある。
しかし、名古屋議定書が発効したあとでは、研究機関や保存機関に保存されているいわゆる生息域外遺伝資源についてもその効力が及ぶことを理解すべきである。名古屋議定書の示す要件で重要になるのは、生息域外遺伝資源の第三者移転と非商用利用から商用利用への転換である。生息域外遺伝資源に起源国があり、移動の際の契約が存在する場合、契約条件を第三者が遵守することが求められている。商用転換の場合、再契約が必要となる。
見本として掲げた素材移転契約は名古屋議定書に対応していない点も多いことに注意が必要である。特に、名古屋議定書第15条、16条のアクセスと利益配分遵守条項には完全には対応していない。そのため、欧州の名古屋議定書国内措置であるEU規則の第4条duediligence、第5条コレクション登録簿の要件も満たしていないことになる。
現在欧州の学会等を中心に名古屋議定書、EU規則条項に沿った素材移転契約の改定作業が行われている。特に、現在研究者が保有している生物資源を第三者の研究者に移転する場合、オリジナル許可や契約の同時移転等の要件が付加される可能性が高いので注意が必要である。もし、これらの条項を含んでいない素材移転契約を用いる場合、新たな必要条項を付加することを強く要望する。
本素材移転契約見本は、多くの文献集から集めたものである。多くは公開文書であるが、中には使用に制限がある場合もある。実際に素材移転契約を作成する場合は、単なる見本の写しではなく、多くの条文を参考に自身で作成さることを推奨する。見本として用いたものは記載そのままになっているので、中身を確認しないでコピーすれば不都合が生じる場合もある。特に固有名は避けるべきである。
日本語訳も含め本見本集はあくまで参考文書であり、これを用いて起こった不都合について本チームは一切責任を負わない。